鎌倉祇園大町まつり

祭りの歴史

当社は永保年中(1081~84)新羅三郎義光公の勧請と伝える。当時「後三年役」に陸奥国にて苦戦を伝えられた兄八幡太郎義家公のもと助勢に赴く途中鎌倉に入ると、たまたまこの地に悪疫が流行し住民が難儀しているのを知り、これを救うため京都の祇園社を勧請し篤し祈願されたところ、たちまち悪疫退散し住民は安堵し難を救われた。以後住民は祇園さまとあがめ深く信仰してまいりましや。鎌倉の「厄除さん」といわれる由縁である。

「鎌倉年中行事」には、室町時代宝徳年中(1449~52)関東管領足利成氏公の頃は当社の神輿を管領屋敷に渡御し神楽を奏し奉幣の式があるを例をしたとあり、当日の祇園祭には種々舞練物があったと記されている。
天正14年6月(1586)小田原城主北条氏直公は「鎌倉祇園祭」として当社の祭に「喧嘩口論押買狼籍横合非文の輩は権門といえども厳料に処す」と禁制状を下賜された。鎌倉の祇園祭として盛大に斎行されたことが伺える。
慶長9年3月(1604)徳川家康公より当社に対し永楽五貫文の朱印地を下賜され、以後代々の徳川将軍家より朱印状が下付された。

江戸時代の祭の様子は「相模風土記稿」によると「6月7日、同14日四座の神輿が大町、乱橋、小町、雪ノ下の内大蔵の四所に巡行あり、假屋大町、乱橋の二ヶ所に設けられる。」とある。
室町時代以降鎌倉は急速に衰徴し江戸末期には一小寒村となり、当然「鎌倉の祇園祭」も衰退した事は否めないが、かつての賑々しさは「神輿ぶり」にその面影を見出すことができる。

明治25年小島鳥水の「小壺日誌」に「7月14日夜鎌倉大町の祭礼を見ばやと行く・・中略・・大町にいたれば景況一変して雑踏言はむ方なく、揃ひの晴衣に天王さまを担ぐ若者の前駆には、何やら節をかしく唄う撃折小児の賑はしく神輿の駐まるところ、喝采湧くがごとく起きる。神輿の数は四、大町は提灯に「大」字なり・・とある。

広範囲に恒神事の名残りは昭和30年代頃まで続いていたが、今は氏子区域内(大町)の巡幸にとどまる。

祭礼は7月7日から14日迄行われ、7日と14日の両日神輿渡御が行われた。当時の神幸行列の諸役は金棒,猿田彦、獅子頭、織旗、大鉾、大榊、大太鼓、大提灯、賽銭箱、神輿四座奉舁役、トウ子、子使等の設役が籖引きで各氏子に割り当てられた。戦後籤による籤割り当ては中止された。

現在の祭礼は、7月7日から14日の間の土曜から三日間。初日土曜日に神輿は出御する。当日早朝、当番氏子区は「浜降り」を行い海藻を社前に捧げる。例祭が本殿で斎行され、午後1時神輿渡御が始まる。神輿四座の内一番神輿は氏子青年により白丁鳥帽子姿で奉舁され他の三座は車上に奉安される。神幸の行列は鎌倉囃の一座に大太鼓、猿田彦が役員総代と共に随行する。

神幸途次大宝時(旧佐竹屋敷)にて神幸所祭が行われる。これは一番神輿が「佐竹天王」であるとする伝承に起因する恒例の神事である。巡幸の間、満一年未満の赤子が保護者に抱かれて「神輿くぐり」を行い御加護を祈願する古い信仰行事が現在でも行われている。

氏子区内の渡御が終ると小憩の後、夜7時頃から9時頃まで社紋入半被姿にて「神輿ぶり」の伝統を披露する。時には四座の神輿が横一列に密着して並び、さながら一座の神輿のごとく振舞う勇壮華麗なものである。
神輿奉舁に伴う神事芸能として「鎌倉囃子」と「天王唄」がある。天王唄は「伊勢音頭」から発したもので、源頼朝公が鶴岡八幡宮を創建の際、用材を浜から伊勢音頭で運んだことに発し、唄い継がれて神輿奉舁の間に唄われる「天王唄」として今に伝わるという。

神輿四座の内一座は室町時代に合祀された祭神佐竹氏霊一座のもので江戸時代には「佐竹天王」と称され、祭神須佐之男命、稲田姫命、八王子命のもので、万延元年(1860)造営の神輿である。

宮司 小坂周防